Works
The World Compass(三井物産戦略研究所機関誌)
2006年2月号掲載
「豊かさ」と「活力」と−成熟化経済と人口大国の行方−

「豊かさ」と「活力」のトレードオフ

 2006年に入って、日本経済はいよいよ「復活」の気配を強めている。積み上がった政府部門の巨額の負債や社会保障システムに関する不安といった中長期的な課題は依然として重いものの、金融機関の不良債権処理に続いて、企業セクターのリストラの結果、雇用、設備、債務のいわゆる「三つの過剰」も解消されつつある。
 とはいえ、それは日本経済が、バブル崩壊以降10年余にわたって続いていた病的な状況をようやく抜け出したということであって、バブル期はもちろん、それ以前の安定成長期のような成長力を取り戻すことを意味しているわけではない。日本経済は、バブル期までのような成長を続けるには、「豊か」になり過ぎている。
 一般に、経済が未成熟で人々の所得水準が低い段階では、人々の所得や消費活動に対する欲求は切実で、経済全体として成長ペースを維持しやすい。産業構造の高度化や、経済発展で先行した国からの技術導入や投資の受け入れによって成長を加速できるケースも多い。しかし、その結果として所得水準が上がってくると、人々の欲求は切実さを失い、成長ペースは次第に低下する。
 本質的にはともかく、現代の資本主義経済の下では、所得水準は「豊かさ」の、成長力は「活力」の指標となっている。それを前提にすると、経済の発展は、「活力」と引き換えに「豊かさ」を手に入れる「成熟化」のプロセスだということもできる。
 戦後の日本経済も、まさにこの成熟化のプロセスをたどってきている。図表1は、所得水準と成長率を切り口として、1960年から2004年までの各年の状況をプロットすることで、日本経済の足跡をたどってみたものである。図の横軸にはそれぞれの年の過去4年間の平均成長率、縦軸には2004年価格で実質化した一人当たり実質GDPをとっている。

図表1.日本経済の「成熟化」の軌跡
  • 出所:内閣府「国民経済計算年報」等より作成


 この図からは、日本経済は、低所得ながら手厚い産業政策に守られて急成長を実現した高度成長期から、石油危機を経て成長ペースを落とした安定成長期、一時的に成長ペースを加速したバブル期とその反動として訪れた長期不況期、いわゆる「失われた10年」といった流れで、「活力」を低下させながら「豊かさ」を獲得してきたことが読み取れる。長期不況を脱した今後の日本経済の成長率は、当面は2%弱、その後は労働力人口の減少ペースの加速によって徐々に低下していくことが想定されるが、その見通しは、これまでの成熟化の軌跡の延長線上の、「成熟期」のポジションに、きれいに納まるものと言えるだろう。
 この状況は日本に特有なものではない。図表2は、図表1と同じフレームに、04年時点の世界の主要な国・地域の状況をプロットしたものである(ただし、一人当たりGDPはドル表示になっている)。為替レート次第で若干ポジションは違ってくるが、既に相当な「豊かさ」を手に入れている米国と欧州(EU旧加盟15カ国)は、日本と同様、図の左上方に位置している。それに対して、経済発展の途上にある国々は図の中ほどに散らばり、発展の初期段階にあるエマージング諸国が右下方に位置している。経済の発展、成熟化に伴う「豊かさ」と「活力」のトレードオフの関係は、複数の国・地域の比較対照においても鮮明に現れている。

図表2.主要国・地域の経済の発展段階
  • 出所:英EIU(Economist Intelligence Unit)のデータより作成(中国のデータは、2005年12月、中国国家統計局発表の改訂値により修正ずみ)


相互補完の構図と人口大国への期待

「豊かさ」と「活力」の引き換えは、それぞれの国・地域の発展プロセスにおいてだけでなく、発展段階を異にする複数の地域間でも見られる現象である。先進諸国の成熟化が進むにつれて、商品輸出や事業投資、技術供与によって先進国が途上国の「豊かさ」の獲得を支援する一方で、途上国の低廉な労働力や活発な消費市場を活用することで、彼らの「活力」を取り込むパターンが定着してきた。先進国と途上国の間で、それぞれが求める「豊かさ」と「活力」とを交換し、相互に補完しあう構図である。
 その相互補完関係の枠組みの強化と、その枠組みの中で有利なポジションを占めることに関しては、先進国も途上国も、多大な努力を続けてきている。枠組みの強化では、貿易と対外投資の促進を目的として、GATT(多角的貿易交渉)からWTO(世界貿易機関)へと受け継がれてきた多国間の交渉が進められている。個別に有利なポジションを得ようとする動きとしては、近年活発化してきた各国のFTA戦略が典型だ。西欧の最も豊かな国々の経済共同体であったEECがEC、EUへと枠組みを変えつつ、南欧や中東欧の発展の遅れた国々をメンバーとして囲い込んでいっているのも、「豊かさ」と「活力」の相互補完関係を意識した動きと言える。また、米国の場合には、貧しい移民を受け入れ続けることで日本や欧州を上回る「活力」を維持している。
 こうした構図の下で、ますます注目を集めているのは、言うまでもなく、近年急速に台頭してきた中国とインドの両人口大国である。その「活力」と人口規模は、図表2においても圧倒的な存在感を示している。90年代には、両国は世界の生産拠点として注目された。低賃金の労働力を求めて、先進国の企業がこぞって工場を開設した中国は、衣料品や家電製品などの一大生産国となった。また、英語を公用語とするインドには、コンピューターソフトや情報システムの開発拠点が数多く設けられた。
 そして、その結果として両国の経済発展が加速すると、今度は両国の消費市場の将来性が注目を集めるようになってきた。それぞれ10億を超える人口規模を考えると、要求される「豊かさ」も提供し得る「活力」も、これまで発展のプロセスに入ってきていた国々とは桁違いだ。国内市場の成長鈍化に悩む先進諸国の企業は、こぞってこの両国での事業展開を進めている。


制約となる資源、環境

 中国、インドの経済発展の本格化は、その人口規模の巨大さゆえに、世界経済全体にとっての深刻な制約要因を浮かび上がらせてもいる。地球規模での資源と環境の問題である。その両面で大きなカギとなるエネルギー消費で見ると、現時点では所得水準の低さもあって、中国とインドの人口一人当たりの消費量は先進諸国の数十分の1のレベルにすぎない。しかし、経済が発展し人々が豊かになっていけば、エネルギー消費は確実に増加する。巨大な人口を擁する両国の経済発展が、世界のエネルギー需給、さらにはその他の天然資源の需給関係に与えるインパクトは加速度的に大きなものとなっていく。温暖化ガスの排出など環境に対するインパクトも同様だ。
 その影響は世界経済全体に及ぶことになる。両人口大国の台頭を一因として進んできた04年からの原油価格の高騰は、その第一幕ということになるだろう。また、限られた資源の確保をめぐって、国家間の緊張が一段と高まることも考えられる。既に、国外の資源の確保を意図した中国やインドの外交戦略は、先進諸国にとって安全保障上、黙過できない問題となっている。
 中国やインドが円滑に「豊かさ」を獲得していくには、資源や環境の問題をクリアしていくことが不可欠となる。具体的には、新エネルギーの開発や、省資源技術、環境技術の開発が主となるが、それを取り入れるための生産様式、生活様式の改善も必要になるだろう。これらは当然、先進諸国との「豊かさ」と「活力」の交換関係においても、大きな焦点となる。
 ただし、資源と環境に関する制約は、単に先進諸国から技術を移転するだけで解消される問題ではない。省資源や環境保全においては、先進諸国の方も長期的なサステナビリティを確信できる状況ではなく、生産活動におけるエネルギー効率の向上や温暖化ガスの排出量削減など、いまだ改善の途上にある。今後は、そうした動きに、両人口大国をはじめとする途上国を巻き込んで、協調して問題の解消を図っていく流れが欠かせない。京都議定書におけるCDM(クリーン開発メカニズム)の制度も、それを実現していく枠組みの一つと位置付けられる。
 資源と環境の制約は、先進諸国の「豊かさ」と途上国の「活力」のいずれをも損ないかねない、世界全体にとっての難題であることは間違いない。しかし企業にとってみれば、それは巨大なビジネスチャンスにつながる明確なフロンティアという意味合いも持っている。この領域では、生産活動におけるエネルギー効率が高く、省エネルギーや環境関連技術でも有力な分野を多く持つ日本の企業が果たす役割は、相当に大きなものとなるだろう。それは、国内市場の成長力を期待できない日本の企業にとっては、見逃すことのできない貴重な「活力」の源泉でもある。そこでの企業活動の展開や競合の帰趨は、これからの日本経済と世界経済を見ていくうえでも、きわめて重要なポイントとなりそうだ。


関連レポート

■国家間経済格差の縮小と産業の力
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2014年2月17日アップ)
■世界経済の成長の構図−「新興国主導」の実相−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2012年12月18日アップ)
■「開国」の再定義−産業と文化のOutflowへの注目−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2011年6月14日アップ)
■2010年代の世界の動きと産業の行方
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2011年3月18日アップ)
■高齢化の何が問題か
 (読売isペリジー 2010年10月発行号掲載)
■経済成長の現実−成長鈍化と成長依存症の狭間で−
 (環境文明21会報 2010年10月号掲載)
■日本の存在感−アイデンティティの再構築に向けて−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2010年10月12日アップ)
■2009年の世界経済マップ−金融危機のインパクト−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2009年9月10日アップ)
■世界貿易の構造変化−グローバル化の潮流と金融危機−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2009年7月10日アップ)
■資本主義はどこへ向かうのか
 (The World Compass 2009年2月号掲載)
■日本経済の「今」
 (読売isペリジー 2008年10月発行号掲載)
■低炭素化のリアリティ−資源と環境、二つの難題への共通解−
 (The World Compass 2008年9月号掲載)
■労働生産性から見る日本産業の現状
 (The World Compass 2008年7-8月号掲載)
■日本産業の方向性−集中と拡散がうながす経済の活性化−
 (The World Compass 2008年2月号掲載)
■為替レートをいかに考えるか
 (ダイヤモンド・ホームセンター 2008年2-3月号掲載)
■2008年の世界経済展望−新たな秩序形成が視野に−
 (三井物産戦略研究所WEBレポート 2007年12月14日アップ)
■世界を変えたグローバル化の潮流−世界に広がる繁栄と歪み−
 (読売ADリポートojo 2007年11月号掲載)
■「成熟期」を迎えた日本経済
 (セールスノート 2007年6月号掲載)
■世界経済の減速をどう見るか−安定化に向かうなかで漂う不安感−
 (読売ADリポートojo 2007年6月号掲載)
■格差の構図−先進国の貧困化と新興国の経済発展−
 (読売ADリポートojo 2007年4月号掲載)
■消費の行方−市場は「心」の領域へ−
 (ダイヤモンド・ホームセンター 2007年4-5月号掲載)
■企業による企業の買収−低成長経済下の企業の成長戦略−
 (読売ADリポートojo 2006年10月号掲載)
■「骨太の方針2006」の成長戦略をどう読むか
 (フィナンシャルジャパン 2006年10月号掲載)
■企業として、中国とどう向き合うか
 (ダイヤモンド・ホームセンター 2006年8-9月号掲載)
■「豊かさ」の方向性−浮かび上がる「消費者」ではないアプローチ−
 (読売ADリポートojo 2006年5月号掲載)
■日本経済「成熟期」の迎え方−新局面で求められる「常識」の転換−
 (読売ADリポートojo 2006年4月号掲載)
■長期化が予想される原油価格の高騰−企業の体力と対応力が試される−
 (チェーンストアエイジ 2006年3月1日号掲載)
■2006年の世界地図−「多元化」で問い直される日本の外交戦略−
 (読売ADリポートojo 2006年1-2月号掲載)
■原油価格高騰−静かに広がるインパクト−
 (読売ADリポートojo 2005年12月号掲載)
■消費とリテールの国際比較−経済の成熟化とパブリック・ニーズ−
 (日経BP社webサイト“Realtime Retail”連載 2005年10月6日公開)
■再浮上した成熟化の問題
 (The World Compass 2005年4月号掲載)
■2005年の世界地図−混沌のなかから浮かび上がる新しい構図−
 (読売ADリポートojo 2005年1-2月号掲載)
■これからの景気回復−モザイク型景気拡大の時代へ−
 (読売ADリポートojo 2004年12月号掲載)
■「貧困の輸入」で活力を維持する米国の消費市場
 (チェーンストアエイジ 2004年4月15日号掲載)
■「豊かさ」のなかの停滞を背景に進む消費市場の不安定化
 (チェーンストアエイジ 2003年12月15日号掲載)
■経済の活力をどう確保するか−世界に広がる「貧困エンジン」のメカニズム−
 (読売ADリポートojo2003年12月号掲載)
■高齢化時代の日本経済
 (The World Compass 2001年5月号掲載)
■米国経済−繁栄と貧困と−
 (The World Compass 2000年10月号掲載)


Works総リスト
<< TOPページへ戻る
<< アンケートにご協力ください
Copyright(C)2003