「街の灯」や「ライムライト」と並ぶチャップリンの数ある名作の一つです。主人公(チャールズ・チャップリン)は、仕事に適応できない貧しい工場労働者。彼は泥棒で暮らしを立てる貧しい少女(ポーレット・ゴダード)と出会い、二人の家を持つことを夢見ていろいろな仕事に就きますが、ことごとく失敗してしまいます。
チャップリンの作品には、人の優しさや哀しさを描いたドラマがある一方で、ドタバタ喜劇という土台に、社会に対する鋭い批判、風刺を盛り込んだ作品も少なくありません。「モダン・タイムス」もその一つで、タイトルが示すとおり、制作された1936年という時代そのものが主役とさえ言えるくらいの映画です。「経済を見る」という視点で書くにも、考えられる切り口が多すぎて困ってしまうほどですが、もっとも印象的なのは、やはり工場での流れ作業のシーンでしょう。
主人公が勤めているのは、労働者をまるで機械のように扱う厳しい工場です。彼は工場での単調な労働に耐えられず、精神に異常をきたし、工場の生産ラインをメチャクチャにしてしまいます。ベルトコンベアに乗って次から次へと流れてくる機械部品のネジを次から次へと締めていく。単調でいかにも辛い作業です。一体何のために、何を作っているのかという意識も薄れていきます。映画でも、主人公が働く工場が、何を作っているのか、最後まで分からないままです。
前に、「社会的な分業こそが経済の本質」だと書きましたが(「ローマの休日」の項参照)、極端に細分化された仕事は、働く喜びどころか、苦しみの源でしかありません。「モダン・タイムス」の冒頭のシーンは、ドタバタ喜劇の形を借りて、行き過ぎた分業、間違った分業がもたらす不幸を、強烈に描き出しています。過酷な工場労働の問題は、この映画が公開された1938年、工場での生産活動が定着し、大恐慌の傷跡を引きずっていた時代のアメリカでは、きわめてリアルなものだったのでしょう。ですが、その問題は決してこの時代に特有なものではありません。
映画に描かれたような、極端に抑圧的な工場労働は、豊かな国では過去のものとなったのかもしれません。ですが、アジアや南米などの貧しい国の人々にとっては、まだまだ現在の問題です。どんなに辛い労働でも、それを拒否すれば飢えと貧困が待っているのです。「モダン・タイムス」が描いた労働者と同じか、あるいはもっと厳しい状況です。
豊かな国の人々にしても、仕事の細分化の問題は流通業やサービス業、さらにはオフィスでの管理・事務の仕事へと広がっています。仕事の意味を見失い、働く喜びを得られなくなっているという意味では、行き過ぎた分業、間違った分業の問題は、21世紀初頭の豊かな国に生きる私たちの問題でもあるのです。「モダン・タイムス」には、豊かな消費生活を象徴するデパートやダンスホールも登場します。物質的な豊かさは、仕事の細分化ではじめて可能になるのか。この映画からは、そうした問いかけも感じられます。
現代の先進国では、耐え難いほどの過酷な労働を強いられるわけではなくなったために、私たち一人一人が、細分化された仕事に馴らされ、「仕事とは辛いもの、時間を犠牲にしてお金を稼ぐためのもの」と諦め、受け入れてしまっているように思えます。「モダン・タイムス」でも、主人公以外の工場労働者は、既に細分化された単純労働に馴らされてしまっています。そのことは、映画の冒頭で、群れて歩く羊たちの姿が、工場へ通う労働者たちの群にオーバーラップして描かれていることからもうかがえます。単純労働に適応できずに頭がおかしくなった主人公と、適応できた多くの労働者。果たして、そのどちらが人としてまともなのか。
映画のラストでは、仕事を失くした主人公が、それでも諦めることなく、少女と二人、明日を目指して笑顔で歩きはじめます。その姿に、現代の私たちの姿を重ね合わせるのは、甘すぎる見方なのでしょうか。
今回の映画
モダン・タイムス(1938年、アメリカ)
監督:チャールズ・チャップリン
出演:チャールズ・チャップリン、ポーレット・ゴダード
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