「ローマの休日」には、オードリー・ヘプバーンのアン王女がローマのいちばを一人で散策するシーンが出てきます。魚屋で活きたウナギに触ったり、果物を勧められたりといった、一分少々のごく短いシーンです。
この映画は、ローマの観光案内の趣もあって、トレヴィの泉、真実の口、祈りの壁など、ローマの観光名所が次々に登場します。そんななかで、いちばのシーンは、とくに「ローマの…」ということではなく、高貴な王女さまが庶民の暮らしに触れる、という図式になっています。
同じようなシーンが、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」にもあります。彼はこの作品で、富豪の友人を殺して、その財産を乗っ取ろうとする犯罪者トム・リプレイを演じていますが、友人を手に掛け、これから知謀を尽くして財産を乗っ取りにかかろうという矢先、束の間、町のいちばを散策します。殺人の罪を犯し、過去の日常にはもう戻れないトムが、いちばの人々の温もりのなかを歩いていく。何でもないシーンなのですが、ニーノ・ロータの音楽が重なり、なぜか印象に残るシーンです。
可憐な王女と冷徹な殺人者。まったく対照的ですが、どちらも私たちの日常とはかけ離れた存在です。そのことが、いちばという日常生活そのものの情景をバックにすることで、一段と際立ってくるわけです。もちろん、今の私たちが観る場合には、アン王女、犯罪者トム・リプレイというだけではなく、大スターのオードリー・ヘプバーン、アラン・ドロンが、いちばを歩いているという感覚を同時に持ってしまいます。その意味でも、日常と非日常の対照という構図が活きてくるわけです。
「ローマの休日」でも「太陽がいっぱい」でも、いちばのシーンは一分あまりの短いものですが、この作品でアカデミー主演女優賞を穫ることになるオードリー・ヘプバーン、そして、世界の女性の憧れの的アラン・ドロンの、自然な素顔が覗くシーンでもあります。映画全体のなかで、他のシーンとは趣が違うのですが、実に印象的なシーンです。
その他にも、いちばが私たちの日常の象徴として登場する映画は少なくありません。同じオードリー・ヘプバーン主演作でも、「ローマの休日」とはまったく逆パターンの「マイ・フェア・レディ」がそうです。ロンドンの市場の花売り娘が、正しい発音とマナーを身に付けて、上流社会にデビューしていくというストーリーのなかで、舞踏会や競馬場が上流社会を象徴する一方、いちばは、庶民の暮らしの象徴となっています。
これらの映画では、いちばは、普通の人同士がお互いに支えあって暮らしていることを象徴する存在です。その意味で、いちばは、現代の経済の縮図だといえます。それは、経済とは、一言でいえば「人々が暮らしていくうえで、お互いに支えあう枠組み」と捉えられるからです。言い換えると、現代の経済から、複雑な部分をどんどん削り取っていって、シンプルにシンプルに捉えなおしていくと、「いちば」の姿に行き着くということでもあります。
今、私たちのほとんどは、日常の買い物には、近所の商店街やスーパー、コンビニを使っていて、いちばを使う人はあまり多くはないと思います。それでも、いちばの情景には、何か生活のにおいといったものを感じ取ることができるのではないでしょうか。いちばは、私たちの生活実感の象徴であり、経済の縮図でもあります。近年では、経済の動きと私たちの生活実感のギャップは大きくなるばかりなのですが、いちばの情景は私たちが実感として理解できるものです。
人々は、それぞれに作ったもの、穫ったものを持って市場にやってくる。それらをお互いに売買し、それぞれが生活に必要なものを揃えて帰っていく。これが経済の原点です。みんなで仕事を分担することで、仕事の効率を上げる。仕事の成果を持ち寄って、みんなで交換しあう。こうした「社会的な分業」の枠組みこそが経済の本質なのです。
今回の映画
ローマの休日(1953年、アメリカ)
監督:ウィリアム・ワイラー
出演:オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック
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太陽がいっぱい(1960年、フランス、イタリア)
監督:ルネ・クレマン
出演:アラン・ドロン、モーリス・ロネ
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マイ・フェア・レディ(1964年、アメリカ)
監督:ジョージ・キューカー
出演:オードリー・ヘップバーン、レックス・ハリスン
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