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text017 2003年8月24日

「リテラシー」を考える


 今、気になっている言葉に「リテラシー」というのがあります。'literacy'、手元の辞書には「読み書きの能力」とか「教養があること」といった訳が載っていますが、最近ではちょっとニュアンスが違っていて、「社会生活を送るのに必要な最低限の知識、能力」といった意味で使われています。なにも英語の単語を使うことはないのですが、ぴったりした日本語がないので、そのまま英語を使っているのです。

 この「リテラシー」と対になるのが、「スキル」ということになるでしょう。仕事をするうえで、「セールスポイントや差別化ポイントになり得る技術、能力」といった位置付けです。さらに高度な専門性を指す「エクスパティーズ」という言葉も、よく目にします。

 で、その意味での「リテラシー」ですが、かつては確かに「読み書き」が「最低限の知識、能力」ということでよかったのでしょう。しかし、現代では読み書きだけでは、満足な社会生活を送ることは難しい。雑誌や新聞で、「情報リテラシー」とか「ITリテラシー」などという表現が使われるのも、必要な情報を集めたり選び出したりする技能や、コンピュータをはじめとする情報機器を使いこなすことは、現代社会に生きていく上では必要不可欠だという認識が背景になっています。その他にも、自分の人生設計における資産管理をきちんと行うための技能としての「金融リテラシー」などという表現も見かけますし、「使える英語」というのもリテラシーの一部になりつつあります。

 このように、リテラシーの範囲は、時代とともに変化しています。かつては、コンピュータを操作することは一握りの専門家、エクスパートだけに限られていました。コンピュータを操作する技能は、立派なエクスパティーズだったわけです。それがパソコンの普及とともに、スキルとなり、基本的な部分は既にリテラシーの一部に位置付けられています。

 それとは逆に、日本では「読み書き」と並ぶリテラシーの柱であった「そろばん」は、その地位を失っています。「ちゃんとした敬語を話せる」というのは、かつてはあたりまえのリテラシーだったのでしょうが、今ではスキルにまで格上げされつつあります。そのうち、「漢字が読める」ことがスキルと呼ばれるような日が来るかもしれません。

 こうした変化は、技術や社会の変化に対応するものなわけですが、それがあまりに激しくなったため、リテラシーにしろスキルにしろ、それを人々に身に付けさせる仕組みの不備が目立ってきています。それは子供や若者に対してだけでなく、大人たちまでが、改めてリテラシー獲得の必要に迫られています。ITや金融知識はその典型といえるでしょう。「IT革命」という言葉が流行した頃には、それとあわせて「デジタルデバイド」という言葉も流行りました。

 きわめて大雑把に言うと、リテラシーを身に付けさせるのが義務教育の役割と言えるでしょうが、小学校や中学校のカリキュラムの変化は、世の中の変化にはなかなか追い付いていないように思えます。同時に、リテラシーのそのまた土台とも言える「躾」を担当するはずの家庭の教育機能も、昔に比べて落ちているのではないでしょうか。そういった問題を、この「リテラシー」という言葉を切り口にして、少し突っ込んで考えてみたいと思っています。


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